「ね、私を風の盆に連れて行って」、

JR高山線八尾駅前には、特設ステージが出来ていて、その脇を通り過ぎ、井田川に架かる十三石橋を渡ると道は登り坂になり、二つほど急な傾斜を過ぎると道は二筋に分かれる。東町の通りを登って突き当たりを左に折れ、その先を右に曲がった通りが、日本の道100選に載る「諏訪町本通」だ。
おわらのために買った家の前庭には去年まではなかった「酔芙蓉」が咲いている。
翌日、四時過ぎ、玄関が開いた。

「・・・とうとう来ちゃった・・・」

ノルマンディーの海岸で、あの言葉を聞き、八尾に通い出して三度が過ぎ、そして家を買って四度目を迎えた風の盆の日だった。

 

高橋治作「風の盆恋歌」(1986年)が書かれると、それまでも多くの人気があった風の盆は更に世間に知られるようになり、その人気は一層高まった気がする。この小説の中に描かれている風の盆がストーリーを際立たせ、際立ったストーリーが風の盆へと心を誘う。風の盆に行く前に読んだら、おわらの魅力は倍増するだろうし、八尾を知っている者はその情景描写に頷いてしまうだろう。

北から南へ細長く上っている坂の町八尾は、9月1・2・3日の三日間、それまでの町の風情とは一変し、祭を楽しむ人々でごった返し、朝までおわらを踊って町を流す。300年の歴史を持つ風の盆はちょうどこのころやって来る台風を治め豊作を願うものだが、胡弓の引き音、三味の弾く音、太鼓の打つ音が絡み合い響き合ってもの悲しくも安らぎのある音色を奏で、囃子方の呼びかけに枯れた歌い手の高い声が応え、仕事や、季節や、男と女を歌い上げていく。ゆったりとしたテンポに酔うが如く流れるように舞う踊りは、しかしぴたっと一瞬止まる時のその線が実に艶っぽく、優美で、表情を隠そうとするように深くかぶった編笠姿がその感を深くする。

 

蔵や格子戸が残り軒の低い家が並ぶ通りの両側に立ち並ぶぼんぼりが、ほんのりとその町並みと、その坂道を音もなく踊り下りてくる二筋の人を照らし出している様は幻想的で、不思議な空間を作りだしています。
しかし、その幻想さも一瞬、観客のフラッシュの嵐が現実を映し出してしまう、私もその一人だった。
この風景を写真に撮りたい、でもシャッターを押すたびにこの景色は消えてしまう、・・・踊ってる人は、唄ってる人は、奏でている人はどう思っているのだろう?
祭の時間は午後3時から11時とチラシにはある、八尾の人たちは来る人を暖かく迎えて、おわらを見せてくれていたのだ。
シャトルバスは駐車場から会場行きは午後3時〜午後9時まで、会場から駐車場へ戻るバスは午後11時までの運行なので、11時を過ぎると観客の数はめっきり減るが、それでもメイン通りで腰を下ろすのは容易ではない。
深夜通りかかった店の前を片づけていた店員さんが、これから着替え髪を上げて○時までに行かなくちゃとニコニコと話してくれた、我々をもてなしてくれたその後で、自分のおわらを楽しんでいるのですが、それをじゃまは出来ないなと思いつつも、明け方まで追っかけをしている私でした。
せめてもと、フラッシュはOffにしました。

次の年もふたりでおわらを一緒にすごし、疲れで熱の出た女を京都の自宅まで車で送って行ったが、
弱々しく門を押し開け入って行ったのが、目にした最後の姿になった。

不倫、そう片づければ終わってしまう話だが、女の思いはそんな簡単な言葉では片づけられないところにあったようだ。
夏が終わる頃この本を手にし 八尾の風の盆に誘われた。

それは切なく…一途な愛なのです

あれから20年目の事…
そのまま時を過ごせば思い出話にもなるのに あの時の自分の心を確かめたかった。
愛されてこそ生きた証だと、あきらめがないのかもしれないし、欲なのか・・・
心許しているのに突き放した人の心の中を知っておかなければ、そしてあの時の自分の思いを伝えおかなければ、
この愛、この人生さえも無意味になってしまうと、思わずにいられなかったに違いない。
勝手なのかもしれないが、人を愛すると言う事はそこまでおもいがあるのでは・・・

静かな風の盆に酔芙蓉の花二輪、そんな終わりに   夢 幻 うつつ

おとなの愛を実感する「風の盆恋歌」

また八尾を訪れたくなりました。

次なるぶらり旅はどこへ・・・